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這也不能怪我
我下禮拜就要期末考了
先不多說了
バルバロッサ作戦
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バルバロッサ作戦
戦争:独ソ戦
年月日:1941年6月22日 - 12月
場所:ソ連西部
結果:枢軸軍の戦術的勝利・戦略的敗北
交戦勢力
ドイツ
ルーマニア
フィンランド
イタリア
ハンガリー
スロバキア ソ連
指揮官
アドルフ・ヒトラー
カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム ヨシフ・スターリン
戦力
~3,200,000 ~2,600,000
損害
戦死 174,000
行方不明 36,000
戦傷 604,000
不明
東部戦線
バルバロッサ作戦 - フィンランド - ウマーニ - キエフ 1 - オデッサ - レニングラード - ハリコフ 1 - セヴァストポリ - モスクワ - ルジェフ - ハリコフ 2 - ブラウ作戦 - スターリングラード - ヴェリキエ・ルキ - 冬の嵐作戦 - ルジェフ 2 - ハリコフ 3 - クルスク - スモレンスク 2 - ドニエプル川 - キエフ 2 - コルスン - バグラチオン作戦 - ヤッシー・キシニョフ作戦 - ヴィスワ川・オーデル川 - 春の目覚め作戦 - ベルリン
バルバロッサ作戦(バルバロッサさくせん;ドイツ語:Unternehmen Barbarossaウンターネーメン・バルバロサ)とは、第二次世界大戦中の1941年6月22日に開始されたドイツのソ連奇襲攻撃の秘匿名称を指す。
名称は、神聖ローマ帝国皇帝だったフリードリヒ1世の渾名である Barbarossa(赤髭)に由来する。フリードリヒ1世は名君と呼ぶべき伝説的な人物で、東方に力を傾けたこともあり、対ソ戦にふさわしいと判断されたと思われる。また、ドイツ陸軍は攻勢作戦名に色名を付ける伝統(ポーランド侵攻の白作戦、フランス侵攻の黄作戦、赤作戦など)があり、それの発展形とも考えられる。(バルバロッサが頓挫した影響か、翌年の攻勢作戦はまた青作戦と色名に戻された)
目次 [非表示]
1 ドイツの準備
2 ソ連の準備
3 攻撃の開始
4 初期のソビエトの敗北原因
5 結果
5.1 モスクワの価値
5.2 バルバロッサ作戦の影響
6 関連項目
[編集] ドイツの準備
ナチス・ドイツがソ連への侵攻を開始したこと自体はそれほど国際社会は驚かなかった。ヒトラーの著書『我が闘争』の読者も驚かなかった。アドルフ・ヒトラーは著書の中でドイツ人がより広い生存圏を必要とし、それが東方に求められることを明らかにしていたからである。ヒトラーはスラヴ人を劣等人種と見なしており、彼らを追放した広大な土地に植民地を設ける計画であった。
ナチス・ドイツとソ連は、ポーランド侵攻の直前にモロトフ=リッベントロップ協定を締結して友好関係にあった。それはドイツとソ連が東ヨーロッパの分割支配を合意した相互安全保障条約であった。独ソの条約締結は世界を驚かせた。日本の平沼内閣は日独防共協定に違反するとして責任を取り退陣した。しかし、ドイツにとってこの条約は単に一時的な保険に過ぎなかった。
ドイツ陸軍首脳部はイギリスを背面にソ連を攻撃する二正面作戦に懸念を表明したが、ヒトラーは側近の助言をしりぞけ、「土台が腐った納屋は入り口を一蹴りするだけで倒壊する」と豪語して作戦開始を命令した。
ヒトラーは西方電撃戦の成功により、赤軍との戦いに勝利を確信していた。彼はソ連の扉さえ叩けば、この国は瓦解すると読んでいた。また、赤軍に対する迅速な勝利がイギリスとの和平を促進すると期待していた。
ヒトラーはソ連国境に250万の兵力を移動させ、ソ連領に対して数多くの航空偵察を行ったにもかかわらず、ソ連は何の対策もしておらず、奇襲を許した。これには諸説あるが、独ソ不可侵条約締結のわずか2年後にドイツが攻撃してこないだろうとスターリンが確信していたという説がある。彼はヒトラーが対英戦を終了させた後にしか自国を攻撃することはないと信じ、情報機関からの再三の警告にもかかわらず、その情報はドイツとソ連の間に諍いの種をまくイギリスの謀略であると考えていたとされる。この情報には、東京の駐日ドイツ大使館に潜り込んでいたスパイのリヒャルト・ゾルゲの報告も含まれていたと言われている(最近ロシアで発表された資料によると、ゾルゲとは別のスパイが送った情報だという)。 ヒトラーとドイツ軍指導部は、3個の軍集団の攻撃・占拠目標として、ソ連の特定の地方および大都市を割り当てた。二個軍と第四装甲集団からなる北方軍集団(ヴィルヘルム・フォン・レープ元帥)は、バルト海沿岸に沿い旧バルト三国を経由して北ロシアへ侵入し、レニングラード(今のサンクトペテルブルク)の占領もしくは破壊を目標とした。二個軍と第二、第三装甲集団からなる中央軍集団(フェードア・フォン・ボック元帥)は、現在のベラルーシを通りロシアの中西部を進軍し、モスクワへの直接攻撃が目標となった。三個軍と第一装甲集団、ルーマニア二個軍からなる南方軍集団(ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥)はソ連最大の穀倉地帯であり、一大工業地帯でもある人口密度の高いウクライナ地域を攻撃、キエフを攻略し、南ロシアの草原を抜け東方のヴォルガ川まで進軍するように計画を整えた。
最終的にアルハンゲリスクからアストラハニをつなぐラインまで進出する計画であり、そのため冬期装備も用意されていた。ただし十分な量ではなく、また本作戦中では兵站の混乱から前線部隊に冬期装備がほとんど届かなかった。
[編集] ソ連の準備
開戦時点で、ソ連は主要軍備の保有量と工業生産力においてドイツを上回っていた。ソ連の工業生産は資本主義国が世界大恐慌で苦しんでいた1930年代に急速に発展し、アメリカ合衆国に次いでいた。重点は重工業、特に軍需産業に置かれていた。戦車も航空機も最新鋭のものはドイツの兵器に匹敵、もしくはそれを凌駕する性能を誇った。特に中戦車・重戦車はそれに類するものを持たないドイツ戦車を圧倒した。しかしながら、それらの数は全体からするとその比率は低く、開戦時にはその戦力を見せることが出来なかった。逆に、緒戦において旧式の武装が壊滅状態になったことと大量生産により、最新鋭の兵器に切り替えることが出来るようになったともいえる。生産力の低く損失の補充すらままならないドイツ枢軸軍は見かけの部隊数を増やすために連隊あたりの戦車を減らしたり、二線、三線の部隊には旧式の戦車を配備し続けねばならなかった。
ヨシフ・スターリンは1930年代後半に党や軍における反対派の大粛清を強行しており、経験豊富で有能な陸軍指導部を含む何百万もの人々を処刑していたため、赤軍は弱体化し、指揮官不足さえ惹き起こしていた。
また、1940年にドイツがフランスを電撃戦で破った後も、ソ連軍はドイツ軍の進軍速度を侮っていた。ソ連軍は、前衛がドイツ軍を国境沿いの要塞線で阻止している間に主力が後方に集結し、やがて前進して反撃するという展開を想定していた。しかし、1939年までの国境線に構築された要塞「スターリン線」は、同年にソ連がポーランドの東半分を併合すると廃棄された。新しい国境沿いの要塞は構築中で、途切れ途切れの点として存在しているに過ぎなかった。新要塞線の構築完了までソ連側の防備は脆弱であったが、国境付近に兵力を貼り付ける配備に変更はなかった。また、精鋭部隊の多くはシベリアのソ満国境に置かれ、工業生産の中心はドイツ国境に近いヨーロッパ・ロシアやウクライナに集中していた。
スターリンは独ソ不可侵条約の有効性を信じ、ドイツの攻撃意図を看過ごした。条約締結までソ連ではファシズムの脅威が宣伝され、国内の粛清の口実になっていたが、条約締結後は一転して反ドイツ的論調が抑圧された。情報部からドイツ軍の国境集結を報じられてからも、スターリンはその情報を、独ソ不可侵条約を骨抜きにしようとするイギリスの謀略だと考えた。政府も軍もめだった行動を起さず、前線部隊への警告も行われなかった。こうして赤軍は、戦略的にも戦術的にも一方的な奇襲を受けることになった。
[編集] 攻撃の開始
1941年6月22日(奇しくもナポレオンのロシア侵入と同じ日である)にドイツ軍は攻撃を開始した。作戦には合計300万人の兵員が動員され、それまでの歴史で最大の陸上作戦だった。
二個装甲集団が配備され最強の戦力を持つ中央軍集団は、ミンスク、スモレンスクなどでソ連の大軍を包囲撃破してモスクワ目指して進撃を続けていた。しかしヒトラーは、南方軍集団のウクライナ攻撃を支援するために中央軍集団から第二装甲集団を引き抜き、南方へ進撃してキエフを守るソ連軍を背後から包囲するよう命じた。それは開戦後ウマーニ包囲戦などの限定的な成功はあったものの、ソ連軍が主力を配置していたため苦戦を強いられていた南方軍集団にキエフでソ連軍主力を包囲撃破する機会を与えたが、この動きはモスクワに対する攻撃を遅らせた(ドイツ軍がモスクワをその攻撃の視野に入れ始めたとき、秋の雨季による泥濘と、続く冬の寒さがその進軍を停止させた)。ただし、OKHなどが考えていたモスクワ直進作戦を行った場合、補給が追いついていなかったこと、さらにソビエト連邦の大都市や資源が存在する南方での進撃が史実よりも困難になることから、南方への転進は正当な判断ではないかともいわれている。10月中旬に南方軍集団はキエフを占領し、650,000人を越える捕虜を連行した。その多くはナチの強制収容所で死んだ。キエフはその防衛戦闘により、のちソ連政府から英雄都市の称号を与えられた。
祖国を防衛するための大祖国戦争を宣言したソ連による抵抗は、ドイツ側が予想したよりはるかに激しかった。ベラルーシ、ブレストの国境要塞での戦いはその一例である。ドイツ侵入の初日、要塞は数時間以内に占領できると計画された。しかし実際には、ソ連の守備隊は包囲された要塞で一か月間戦い続けた。同時に主要な正面戦線においては、多くのソビエト徴集兵の自殺行為にも似た突攻が行われた。補給線が伸びてパルチザンの攻撃に脆弱になったので、ドイツの兵站補給はさらに問題になった。赤軍は、ドイツ軍に占領地の食物、燃料および建造物の使用を行わせないために、放棄せざるを得なかったすべての土地で焦土戦術を実行した。ソビエトからの独立志向があったウクライナ地方においては、ウクライナ人をドイツ軍に協力させる案があったが、苛烈な占領政策によって結局のところ敵に回してしまっている。
また、ソ連軍の装備していたKV-1重戦車とT-34中戦車は、ドイツのいかなる戦車よりも強力であり、戦車戦術のエキスパートと自他共に認めていたドイツ軍に大きな衝撃を与えた。この対策として、ドイツ軍は急いで新型戦車(ティーガーI及びパンター)の配備と、既存戦車の改良を進めることになる。
バルト海地域とレニングラードの占領が目的だった北方軍集団は1941年8月までにレニングラードの南部周辺へ進軍したが、猛烈な赤軍の抵抗に阻まれた。ドイツ軍は装甲部隊がレニングラードで市街戦に巻き込まれることを恐れ、第四装甲集団をモスクワ攻撃のため中央軍集団に転属させ、レニングラードでは包囲と封鎖によって補給を絶つことを決定した。しかし1944年前半のドイツ軍の撤退までレニングラードは持ちこたえた。レニングラードは英雄都市の称号を受け取った最初のソ連の都市となった。
キエフ攻略後、第二装甲軍(装甲集団から改称)は中央軍集団に復帰し、最後にして最大の目標であるモスクワ攻略のタイフーン作戦が開始された。ヴャジマ、ブリャンスクの二重包囲戦でソ連軍は再び50万の兵を失った。しかし、その後秋の長雨が到来し、路面は泥濘と化してドイツ軍の前進は停止し、その間にソ連軍はモスクワ前面の防衛体制を再構築した。寒気の到来と共に地面が凍って再びドイツ軍は前進を開始したが、寒さが厳しくなるにつれてドイツ軍の前進速度は鈍り、シベリア方面から到着した新鋭部隊の増強を受けたソ連軍の抵抗もあって、12月初旬についに停止した。満足な冬季戦用の装備もなく、補給も不十分なままに各戦線で停止したドイツ軍に対してソ連軍の冬季反抗が開始され、反撃の大部分は、モスクワに接近していた中央軍集団に向けられた。モスクワはその後英雄都市の称号を受け取った。
[編集] 初期のソビエトの敗北原因
赤軍の開戦初期の大敗の原因は単純だった。彼らはドイツの攻撃を予期せず、防御のための準備を行わなかった。さらに悪いことには、赤軍の大部分は独ソ国境に集結させられていた。国土は寸土であっても渡さないといった硬直化した思想のため、戦闘開始の数時間でほとんどが撃破されたのである。ドイツが編み出した電撃戦に対しての有効な防御はまだ編み出されていなかったのだ。電撃戦に対しては逆効果と思われる戦術のために膨大な人員と資源を消耗した。
この敗北はソ連の宣伝姿勢の変化を引き起こした。戦前赤軍は非常に強力であるとされていたが、1941年の秋には、赤軍は弱かった、戦争の準備をする十分な時間がなかった、ドイツの攻撃は驚くべきものだったという印象を与えた。このことはソ連崩壊後の現在のロシアの学校では、スターリンの1930年代の粛清で多くの熟練した士官を失ったことを付け加えて教えられている。同時に戦争が終わって何十年も経った現在でも、1939年から41年の赤軍の記録ほとんど全てに秘密が存在することと関係がある。
とはいえ、人口や生産設備、農地などの大半を失った後でもソ連がドイツを破った事実は、ソ連が決して弱くなかったことを証明した。これまでナチス・ドイツが戦った軍と比べて、赤軍は粘り強さにおいてはまったく違う軍隊であった。戦争が進むにつれほぼ全滅するまで抵抗をやめない赤軍のために電撃戦の効力は徐々に失われていった。
なお、近年になって「スターリンがドイツを出し抜き先制攻撃を行おうとしていた」とする説が、ロシアの歴史家から提出され、論争となっている。この説によると、赤軍の独ソ国境配備もそのためであったという。
[編集] 結果
首都モスクワ攻略によってソ連を屈服させることはタイフーン作戦の失敗と、それにともなうモスクワ方面の防衛の強化により不可能となった。ソ連軍による冬期攻勢によってドイツ軍の全線で恐慌的な敗走・戦線の崩壊が起こるところであったが、ヒトラーの死守命令と各部隊の奮戦によって何とか持ちこたえた。しかし、短期決戦を想定して戦いに挑んだドイツ軍の戦力は大幅に低下し、この後ついに作戦開始時の戦力を取り戻すことはなかった。今後の戦いは大戦力による奇襲はありえず、長期戦・持久戦になることを意味していた。また、ヒトラーの退却不可命令に従わない将軍の大量更迭は、国防軍内で大いに不評であった。
バルバロッサ作戦の失敗の最大の理由は、ロシアの地があまりに広大でドイツ軍の補給が追いつかなかったことと、ソ連の戦争遂行能力がドイツ側の予想外に高かったことであった。それまでドイツに敵対した軍隊とは異なり、戦線が内陸部に進むにつれて赤軍は激しい抵抗を示したのだ。最初の一撃でソ連軍全体が崩壊するだろうというヒトラーの見通しは余りに楽観的であった。ヨーロッパ・ロシアはレニングラード、モスクワ、南方の資源地帯と戦略的目標が分散していたが、ドイツ軍はどれかに重点を置くことなくそれぞれに対して兵を三分してしまった。それは兵力の分散をもたらし、全ての主要目標の攻略は失敗に終わると共に、補給の困難さを招いた。また、ヒトラーがユーゴスラビアの反ドイツ政権の転覆に干渉し、さらにムッソリーニが独断で侵攻したギリシャ侵攻作戦が大失敗に終わり、ギリシャ軍に逆襲されたことに対して装甲部隊の投入を余儀なくされたことにより、(Cf.バルカン半島制圧戦)、当初の5月15日実行から一ヶ月以上延期されたことも、同年は冬の到来が例年になく早かったことと合わせて大きな影響があったと思われる。
[編集] モスクワの価値
首都モスクワ及びレニングラードを陥落させたとして、ソ連が講和に応じるかどうかは別の話である。仮にモスクワを落としたとしても、工場などの多くはウラル以東に疎開されており、またソ連野戦軍が壊滅するわけではない。スターリンが健在な限りは、恐らくモスクワ及びレニングラードの陥落がソビエトの敗北を意味するわけではないであろう。
しかしながら、モスクワはソ連の戦略上の理由から全ての鉄道線の集中点となっており、道路網が不完全で鉄道に頼るソ連においてドイツ軍が保持し続けていたならば、その政略・戦略上の価値は計り知れないものである。ここを制圧できなかった時点でドイツの独ソ戦での敗北は避けられなかった可能性が高い。
[編集] バルバロッサ作戦の影響
翌1942年、ドイツは限られた戦力下で再び東部戦線で決定的な戦果を上げるべく、ソ連の主要な油田が集中するコーカサス地方の制圧を目標としたブラウ作戦を発動することとなる(作戦立案段階では、スターリングラードは制圧対象ではなかった)。(しかし、ケルチ海峡を挟んでカフカス地方に隣接するクリミア半島の制圧が難航しており、セヴァストポリの戦いが、ブラウ作戦発動前後に行われた。)しかし、またしてもヒトラーの命令によって戦力がカフカス方面とスターリングラードに二分されてしまい、決定的な戦果を上げる前に致命的な市街戦に引きずり込まれたドイツ軍は、スターリングラード攻防戦でかつてない大敗を喫し、独ソ戦の流れは完全に変わることになる。
[編集] 関連項目
- Dec 10 Mon 2007 15:29
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好累
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